南無阿弥陀佛
みなさんこんにちは(^O^)
今日の鋸南町勝山は、
朝から快晴!!
いやー、待ちに待った夏って感じで
気持ちいいです🌞
外はかなり暑かったようですが
今日はほぼ一日中、
事務仕事と原稿書きで室内にいたので
それ程「暑い~~」って感じではなく
身も心も快適に過ごせました😀
さて、「例年ならば……」シリーズ、その③です。
例年ならば、
東京中心の浄土宗のお寺では
5月から8月にかけ
「施餓鬼会」という法要が勤められます。
例年、何件かのお寺さまにご縁をいただき、
この「施餓鬼会」に伺って
お参りの皆さまに法話をさせていただいています😅
が、今年は、ご想像の通りことごとく中止に😥😥😥
実は、檀家のK子さんから
法話用の夏の衣を寄進していただきました。

今年は、新しい衣で
法話にのぞむつもりだったんですがーーー、
この調子だと、一度も袖を通さいまま、
それどころか、しつけ糸さえ取らないまま
シーズンを終えそうな勢いです(T_T)
まあ、来年以後、末永く使わせていただくので
それはいいんですけど、
ところで
「施餓鬼会」とは
読んで字の如く「餓鬼に施しをする」法要です。
お釈迦様の高弟であった「阿難さま」が
お弟子入りして間もない頃のある日の夜中
静かに瞑想をしていると、突如「餓鬼」が現れ

「汝は三日後に命尽きて餓鬼道に落ち飢え苦しむであろう」
との宣告を受けます。
恐れおののいた阿難様は
お釈迦様に救いを求めます。
するとお釈迦さまは
「阿難よ、汝恐れることなかれ」と
おびえる阿難さまを優しく受け入れ、
「無数にいる餓鬼に等しく飲食の施しをする法」
をお授けになります。
阿難さまはお釈迦さまの教えの通りにすると
飢え苦しむ餓鬼たちは等しく飲食を得て飢えから救われ、
その功徳により
阿難さまも、三日と言われた命を永らえ、
餓鬼道に落ちることもまぬがれることができた。
という、お経に説かれる教えを拠り所に勤められるのが
「施餓鬼会」です。
今の私達も、
餓鬼道に堕ち苦しむ無数の餓鬼に飲食の施しをして功徳を積み、
同時に、
人間の「姿」を受けてはいるけれども
心のありさまは「餓鬼」同然になっていないか?
自らを見つめ直す機会とする、ということも
「施餓鬼会」の大事な趣旨です。
コロナ禍で
一時、いろいろなものが店頭から姿を消しました。
マスク、トイレットペーパー、アルコール消毒……。
中には、品薄を見越して大量に買い込み、
転売して暴利をむさぼる人もいたとか😱😱😱
又、神経質になるあまり、思いやりの心を失い
心ない言葉で人を傷つけてしまう、
ということもあるようです。
姿かたちは人間でも、
このような、醜い「心」や「振舞い」は「餓鬼」そのもの。
「人間」の姿をした「餓鬼」とも言えるのではないでしょうか?
このような醜い心や行為はすべて、
命尽きた後、自分自身が実際に「餓鬼道」に堕ちる原因として、
自分の中に積み重なっていきます。
そしてその身そのまま息絶えれば、
行きつく先は、
「餓鬼道」に真っ逆さま
ということになってしまいます。
とはいえ、一方で
「我が身さえよければ……」という思いは
私たち人間、誰もが持っている心でもあります。
だからこそ、
この「我が身さえよければ……」という思いを
「断ち切る」ことはできないまでも「極力抑える」ように心がける。
「貪る」のではなく、逆に「人にほどこす」ことを
仏教では勧めているのです。
そして、
「我が身さえよければ」という思いを完全に断ち切れず
追い詰められれば罪を犯さずにおれない。
そんな、愚かな私たちを見捨てることなく
「ナムアミダブツと称えればどんな者も漏らさず救う」
と誓われた仏さまこそが
「阿弥陀さま」という仏さまなのです。

いかなる時も、
人に対しての「やさしい心」を忘れないように心がけると同時に
阿弥陀さまの「全ての者を救わずにおけぬ」という
大慈悲のお心を信じて、
「ナムアミダブツ……」とお称えしてまいりましょう!!
それでは今日はこのへんで
明日が皆さんにとって良き一日でありますように
(^^)/~~~
合掌